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自分を信じろって言われても、、、 [日本文化とキリスト教]

自分を信じろ、信じられるのは、自分だけだ、最後は、自分だけが頼りだ!という言葉を、あたかも、その人を勇気付けるために用いられることがある。しかし、この言葉以上に、自分自身を不安定にさせる言葉はない、と思うのです。それは、人間は、人生の経過を経れば経るほど、自分ほど当てにならない存在はない、ということに気づくからです。若い時は、まだ経験が足りない、だから、これから充分訓練し、また修練をつめば、必ず、完成する、また完全に近づくことができる、と考えることもある。しかし、人生において、必ずしも、良い、また、納得行く経験ばかりではなく、実は、日々、失敗との格闘でもあり、その格闘に、なんとか、勝利しても、また次の難題が生まれて来る、それは、ほんとに冒険のようです。勝ち組、負け組みという言葉が流行しましたが、その言葉に象徴されるように、人生の成功者と、また失敗者、あるいは、失格者との線引き、それは、実は絶対的なものではなく、非常にあいまい、ある人には、その人が成功者に見える、しかし、本人は、内心不安で不安でしょうがないということもあるのです。それは何故でしょう?それは、人間の成功あるいは、達成感というものは、ある人にとっての主観的なものであり、かつ、その時、その時の状況に応じて絶えず変化し、それは、株の値段と同じように、絶えず競争の中に置かれ、そして、いつも、他者に出し抜かれないように、警戒をしていなければならず、かえって、自分の成功が、自分自身の首を絞めてしまうことがあるからです。ここで、問いたいのは、本当に、”自分”を信じる者が、成功し、自分を信じない者は、成功しない、と言えるのか?ということです。自分を信じるとは何か?それは、自分の能力、つまり、経験と、修練の賜物、また自分の潜在能力とでも言えるものでしょうか?しかし、このような試みは、実は、ことごとく失敗してきたことを、私たちは、歴史から学ぶことができます。それは、自分を信じるということは、それは、自分自身が、自分の人生の”主”となることであり、つまり、自分の心の王座に、自分自身が座り、命令し、決定をくだす、つまり、完全な自己責任という立場に、自分自身を置くことです。しかし、私たちは、人生の経験と共に、自分自身ほど当てにならないものであることを、次第に理解するようになります。人間は、弱く、そして愚かで、かつ多くの助けを必要としている、ということを。人間は、万能でも、全能でもないのです。だからこそ、”何”を信じるかが、私たちの人生の歩みを決定付けます。ある人は、自分の思いで、ある人は、他者の声に従い、ある人は、神と呼ばれる存在に、と人は、何かを信じて生きている者です。もし、この世界に「神」と呼ばれる存在が存在しないのならば、私たちは、最終的には、”自分”を信じろ!という結論に至るでしょう。なぜなら、自分のことを一番理解しているのは、神様を除いては、自分以外には無いのですから。しかし、もし、この世界に「神」と呼ばれる方、それも、すべてをご存知で、かつ、すべての被造物(神様が造られたものという意味)に対して深い関心を持っておられるのなら、私たちは、この神様というお方の思いや、また意志に対して、関心を払わざるを得ないのです。なぜなら、神様がこの世界を創造し、かつ私たちをも造られたのなら、私たちは、神様とは無関係には存在せず、かつ生きることができないからです。「神は愛です」(第一ヨハネの手紙4章8節)とありますが、私たちは、この神は愛である、という言葉、つまり、事実に目を留め、心を馳せ、そして、私たちは、この方の思いと、そして、その「声」にこそ、耳を傾け、生きるべきだ、という結論に至るのです。一人ひとりがぜひ確かめていただきたい、それは、この世界に神!がおられるのか、否か、そして、おられると確信したのなら、その方の思いと、またその御声に耳を傾け、生きて欲しい、自分を信じろではなく、私たちを造られた、創造主なる神様を信じて生きろ!と。
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