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キリスト教らしさ [日本文化とキリスト教]

最近ふと考えたこと、それは「キリスト教らしさ」って何だろう、です。多くの人は、イエス・キリスト、またキリスト教について聞いてきる、知っているでしょう。しかし、キリスト教とは何か?と問われたら、その中身を、正確に答えられる人は、どれほどいるのだろうか、と思いました。そういう自分も、キリスト教徒でありながら、また長年キリスト教について知っていながらも、それを、確かなものとしていただろうか、と考えたのです。というのは、キリスト教の特徴というか、その使命において”伝道”、すなわちキリスト教の教えを、広く宣べ伝えるということがります。となると、ただ空でっぽうを撃つように、伝道することはできません。その聞き手の関心を引かない限り、意味がなくなるからです。しかし、その聞き手の関心を引こうとするあまり、語るべき内容が、相手本位のものとなり、本来自分が語ろうとしていることを見失ってしまうのです。そして、更には、いつの間にか、キリスト教の本質が失われてしまう、ということが起きることもあるということです。そこで問題となるのは、キリスト教”らしさ”を見失ってまで、相手に迎合する必要はない、ということです。キリスト教は、キリストの教えの、また、その存在の”唯一”性にすべてがあると思います。多々あるうちの一つの教え、また多々いる偉人の中の一人でなく、唯一無二の存在、それが、神の御子イエス・キリストであり、またこの世界広しと言えど、イエス・キリストの名以外に、「救い」の対象となる、すなわち、絶対の信頼を置ける存在は、ほかには存在しない、ということです。それがすべてであり、それ以上でも、それ以下でもない、それでイイノダ!ということです。”この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。”(使徒の働き4章12節)
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