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2015年 クリスマス礼拝のご案内 [クリスマス礼拝]

*クリスマスの時期になりました。クリスマス礼拝のご案内です。
 
 日時:2015年 12月20日(日) 10時45~12:30分 (10時30分開場)
 
 場所:相模原市南区東林間5-8-1 太陽ビル4階 
 
 お問い合わせ:電話 046-255-2870  hiroaki789@gmail.com

 皆様のお越しをお待ちしております! OWPCAIKHMTXCA0XXITRCAQKYVGCCAL5DT2NCA3DLUSECA1SYT2QCACV0E32CAVJ5OCACA4LBD9RCA2LJ2NHCASJ44ZKCAQ7QR11CAFCDW79CARH4YO4CAKU9J9HCA0F1M7HCA0VPWTICAJUVSFCCAYBHOOJ.jpg
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自分の足で歩こう! [日曜礼拝メッセージ]

“ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、
 まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。”
                           ヘブル人への手紙12章12,13節

キリスト教のエッセンスの一つに、”癒し”があります。教会に行くと、癒される、癒されるために教会に来る、あの先生は、癒し系だ、、、確かに、キリスト教において、癒しは最も強調されるべきポイントです。しかし、その癒しは、無条件で与えられるものか?が今回のテーマです。聖書の中には、奇跡的に、いえ奇跡として、神から癒しを受けたという記事はたくさんあります。しかし、その中でも、重要なポイントは、その癒しを受け取るために求められていることは、「信仰」です。神様への信仰なし、神から癒しを受け取ることはありません。これは単純なことで、例えば、病気をして、病院で、あるいは医師から治療を受けるためには、自分であろうと、あるいは救急車であろうと、その場所、また治療者のもとへ行かなければならず、またあの病院に行けば、良くなるという心の確信なしに、病院に行くことはないでしょう。神様に対しても同じことです。神様のもとに、”行く”という行為なしに、あるいは、神様に対し、自分の現状を訴え、またその必要を訴え、求めることなしには、癒しを受け取ることはできないということです。”弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。”という聖書の言葉は、神様に対し、信仰を持ちなさい!また、神様の下に行けば、必ず癒される!という確信を持ちなさい、という強い勧めではありませんか!どうか、ご自分の心を強くし、神様のもとに来て、その癒しを受け取ることができますように! 
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教会移転のお知らせ [ニュー・ハーベスト・チャーチ]

長年過ごした、相武台の地を、後にして、新たに、相模原市南区東林間5-8-1太陽ビル4階に、
教会を移転しました。小田急江ノ島線、西口下車徒歩2分です。日曜礼拝は、午前11時00分~12時15分まで。その後、簡単な軽食と、交わりの時を、持っています。どなたでも、大歓迎ですので、
ぜひ、日曜礼拝にご参加ください。
  礼拝プログラム:賛美(ワーシップタイム)、メッセージ、祈りと、とりなしの時を持っています。
          *聖書など、必要なものは、お貸しいたします。

  問い合わせ 電話:046-255-2870(不在時転送されます)
        Email: hiroaki789@gmail.com
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キリスト教らしさ [日本文化とキリスト教]

最近ふと考えたこと、それは「キリスト教らしさ」って何だろう、です。多くの人は、イエス・キリスト、またキリスト教について聞いてきる、知っているでしょう。しかし、キリスト教とは何か?と問われたら、その中身を、正確に答えられる人は、どれほどいるのだろうか、と思いました。そういう自分も、キリスト教徒でありながら、また長年キリスト教について知っていながらも、それを、確かなものとしていただろうか、と考えたのです。というのは、キリスト教の特徴というか、その使命において”伝道”、すなわちキリスト教の教えを、広く宣べ伝えるということがります。となると、ただ空でっぽうを撃つように、伝道することはできません。その聞き手の関心を引かない限り、意味がなくなるからです。しかし、その聞き手の関心を引こうとするあまり、語るべき内容が、相手本位のものとなり、本来自分が語ろうとしていることを見失ってしまうのです。そして、更には、いつの間にか、キリスト教の本質が失われてしまう、ということが起きることもあるということです。そこで問題となるのは、キリスト教”らしさ”を見失ってまで、相手に迎合する必要はない、ということです。キリスト教は、キリストの教えの、また、その存在の”唯一”性にすべてがあると思います。多々あるうちの一つの教え、また多々いる偉人の中の一人でなく、唯一無二の存在、それが、神の御子イエス・キリストであり、またこの世界広しと言えど、イエス・キリストの名以外に、「救い」の対象となる、すなわち、絶対の信頼を置ける存在は、ほかには存在しない、ということです。それがすべてであり、それ以上でも、それ以下でもない、それでイイノダ!ということです。”この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。”(使徒の働き4章12節)
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お祈りに感謝 [国際情勢]

3月22日現在、3号機含め、福島第一原発が比較的安定状態にあるとのこと。また、電源復旧作業も一段の前進があったとのこと、アメリカも、安定化との見解。以前予断を許さぬ状況と思われますが、安定化と、復旧の作業が進んでいることへの感謝の気持ちを、何より神様に、また現場で苦労されている方々、また心を合わせお祈りしてくださっている方々に表します。引き続きお祈りに覚えてくださると感謝です。リビア情勢は、NATOへの軍の指揮権移譲を巡り、米英とフランス、ドイツとが対立とのことです。戦火がこれ以上広がらないようにお祈りください。
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十字架の恵み [ゴスペル]

十字架.jpg「困った時の神頼み」 多くの人が、宗教を信じなくとも、神の存在はなんとなく信じるとか、また、祈るのは本当に困った時だけということで、合格祈願、交通安全、お守り、厄除け、初詣、地鎮祭、と日本の伝統的な行事の中に、また年中行事の中に、多くの人間的な本能と、その自己防衛を目的とした色々な”神頼み”があることに気づかされます。しかし、これらの、宗教的な行いの中にあって、キリスト教独自のもの、は「十字架の恵み」です。「十字架」それは、かつては、「死の象徴」でした。日本においても、獄門磔(ごくもんはりつけ)と称する惨い極刑がありました。しかし、キリスト教における「十字架」は、もはや死の象徴ではなく、”いのち”のシンボルです。それは、イエス・キリストの十字架の死が、私たちのすべての「罪」を購(あがな)った、それは、本来なら、罪ある私たちが、その代価を払い、その刑罰を受けるところを、神の御子イエス・キリストが、私たちの”代わり”に、その刑罰を受けられた、という「十字架の恵み」の故です。神様は、ただ義務感からそれを行ったのではなく、私たちへの”愛”そのもの、その愛の大きさの故に、自らその代価(犠牲)を支払い、そして、私たちに罪の赦しの道を与えてくださいました。神様が、これほどまでに、すなわち、ご自身を犠牲にしてまで、私たちのために”与えたかった”もの、それが、「十字架の恵み」です。それは、私たちが生きて行く上で必要なもの、あるいは、欲する物々以上のもの、いえ比較すらできない最高のもの、それが「十字架の恵み」なのです。それを別の表現で言えば、「神様の愛」です。このような十字架の恵みを覚えると、不思議と、神様への信頼の欠如、不安が、いつの間にか消えてしまうことに気づきます。時には、欲しいもの、また困った時の神頼み的なことを考えることもあり、葛藤を覚えるのですが、しかし、「十字架の恵み」を覚えると、不思議に、それら不安、葛藤から解放され、そうか、十字架の恵みで充分!と思えるようになるのは不思議です。聖書は繰り返し、「十字架の恵み」を証しします。これこそ、「福音(良い知らせ):ゴスペル」ですね!「神は、その御子を賜るほどに、この世を愛された、それは、御子(キリスト)を信じる者は決して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)「私たちが、神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子(キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネの手紙4章10節)
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映画「塩狩峠」を見て [映画・ドラマ]

塩狩峠.jpg昨日、皆さんで、映画「塩狩峠」を鑑賞しました。改めて、感動しましたし、また約26年前の映画なのですが、非常に新鮮に感じました。また、かつての青春ものと呼ばれた青春ドラマのように、あるいは、最近の韓流ブームで見られるような、純愛、あるいは、自己犠牲の精神を、この映画の中でも見ました。この映画の原作:小説「塩狩峠」(三浦綾子氏著)は、1968年作ですが、今もってなお、多くの人が、この小説を、最も好きな、あるいは、感動、影響を受けた小説として推薦しています。また、ある女性ミュージシャンが、この小説を、インターネットで推薦し、あの彼女が読むなら、私も、という多くの人、特に若い世代が、この本を読み、大きな感動を受けたと述べています。インターネットで「塩狩峠」で検索すると、あまりに多くの人が、この本を推薦しているので、驚きます。今年は、小説の主人公のモデルとなった長野雅夫さんが亡くなってから丁度100年目で、事故が起きた2月28日には、記念の式典が、塩狩峠持たれます。零下20℃にもなる塩狩峠に、今なお多くの人が集まるのを見て、あの事故そのものよりも、長野雅夫さんという方の生き様そのものが、あの事故を通して、私たちに、多くのことを、語り、また教えるからなのでしょう。彼は、いつも遺言書を身につけ、いつ何があっても、恐らく、当時の鉄道職は、非常に危険なものだったことを思わせますが、恥じることのないように、また、いつも死、それも、神に、また人に”仕える”という生き方の証しとして、それを携帯していたようです。その遺言書とは、次のようなものです。(以下、小説「塩狩峠」より)
 遺言  一、余は感謝してすべてを神に捧ぐ。  一、余が大罪は、イエス君に購われたり。諸兄妹よ、余の罪の大小となくすべてを赦されんことを。余は、諸兄妹が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味ははれんことを祈る。一、母や親族を待たずして、24時間を経ば葬られたし。一、火葬となし可及的虚礼の儀を廃し、之に対する時間と費用とは最も経済的たるを要す。湯灌のごときは無益なり、廃すべし。履歴の朗読、儀式的所感のごとき之を廃すること。  一、苦楽生死、均しく感謝。余が永眠せし時は、恐縮ながらここに認めある通りに宜しく願い上げそうろう、頓首 長野政雄 この遺言書の故に、一時は自殺であった、との噂もされたようですが、わざわざ、事故が起きた列車において、自殺をする人がいるでしょうか?また、この事故に居合わせた乗客の中に、長野さんが最後のお別れの合図をした、との証言もあるとのことで、自殺、あるいは、長野さんの業務上の過失ではなく、犠牲の死、つまり殉職だったのでしょう。この事故が、今もってなお私たちに語りかけるもの、それは、犠牲的な死、という自己犠牲の精神と生き方も勿論ですが、それだけでなく、果たして私たちは、長野さんのように生き、それも日々、「遺言書」を持参して生きる、という人生そのものに対する姿勢が問われているのではないでしょうか?いつ、何時、自らのいのちを失っても、その覚悟と、また、その人生に恥じない生き方、また死に方というものを、考え、意識して生きる、というその生き様に、改めて「人生の意味」とは何か、ということを考えさせる、良い機会となり。またこれからもなるるようにと映画「塩狩峠」を見ながら思った次第です。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(新約聖書 ピリピ人への手紙1章21節)
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2月11日(水)午後4:30~より、映画「塩狩峠」上映会のお知らせ。 [映画・ドラマ]

塩狩峠.jpg2月11日(水)午後4時30分~より、三浦綾子原作・小説「塩狩峠」の映画上映会を開催いたします。今年は、塩狩峠での事故、故長野政雄さんが、その身をもって暴走した客車を止めた事故から100周年目にあたり、来る2月28日に、長野さんを偲ぶ式典が、塩狩峠にて行われるそうです。ニュー・ハーベスト・チャーチでも、同じ思いで映画の上映会を企画いたしました。入場無料ですので、ご都合のつく方は、どなたでもいらしてください。お待ちしております。
 問い合わせ等: 電話 046-255-2870(終日連絡可)
            メール hiroaki@gc4.so-net.ne.jp   
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自分を信じろって言われても、、、 [日本文化とキリスト教]

自分を信じろ、信じられるのは、自分だけだ、最後は、自分だけが頼りだ!という言葉を、あたかも、その人を勇気付けるために用いられることがある。しかし、この言葉以上に、自分自身を不安定にさせる言葉はない、と思うのです。それは、人間は、人生の経過を経れば経るほど、自分ほど当てにならない存在はない、ということに気づくからです。若い時は、まだ経験が足りない、だから、これから充分訓練し、また修練をつめば、必ず、完成する、また完全に近づくことができる、と考えることもある。しかし、人生において、必ずしも、良い、また、納得行く経験ばかりではなく、実は、日々、失敗との格闘でもあり、その格闘に、なんとか、勝利しても、また次の難題が生まれて来る、それは、ほんとに冒険のようです。勝ち組、負け組みという言葉が流行しましたが、その言葉に象徴されるように、人生の成功者と、また失敗者、あるいは、失格者との線引き、それは、実は絶対的なものではなく、非常にあいまい、ある人には、その人が成功者に見える、しかし、本人は、内心不安で不安でしょうがないということもあるのです。それは何故でしょう?それは、人間の成功あるいは、達成感というものは、ある人にとっての主観的なものであり、かつ、その時、その時の状況に応じて絶えず変化し、それは、株の値段と同じように、絶えず競争の中に置かれ、そして、いつも、他者に出し抜かれないように、警戒をしていなければならず、かえって、自分の成功が、自分自身の首を絞めてしまうことがあるからです。ここで、問いたいのは、本当に、”自分”を信じる者が、成功し、自分を信じない者は、成功しない、と言えるのか?ということです。自分を信じるとは何か?それは、自分の能力、つまり、経験と、修練の賜物、また自分の潜在能力とでも言えるものでしょうか?しかし、このような試みは、実は、ことごとく失敗してきたことを、私たちは、歴史から学ぶことができます。それは、自分を信じるということは、それは、自分自身が、自分の人生の”主”となることであり、つまり、自分の心の王座に、自分自身が座り、命令し、決定をくだす、つまり、完全な自己責任という立場に、自分自身を置くことです。しかし、私たちは、人生の経験と共に、自分自身ほど当てにならないものであることを、次第に理解するようになります。人間は、弱く、そして愚かで、かつ多くの助けを必要としている、ということを。人間は、万能でも、全能でもないのです。だからこそ、”何”を信じるかが、私たちの人生の歩みを決定付けます。ある人は、自分の思いで、ある人は、他者の声に従い、ある人は、神と呼ばれる存在に、と人は、何かを信じて生きている者です。もし、この世界に「神」と呼ばれる存在が存在しないのならば、私たちは、最終的には、”自分”を信じろ!という結論に至るでしょう。なぜなら、自分のことを一番理解しているのは、神様を除いては、自分以外には無いのですから。しかし、もし、この世界に「神」と呼ばれる方、それも、すべてをご存知で、かつ、すべての被造物(神様が造られたものという意味)に対して深い関心を持っておられるのなら、私たちは、この神様というお方の思いや、また意志に対して、関心を払わざるを得ないのです。なぜなら、神様がこの世界を創造し、かつ私たちをも造られたのなら、私たちは、神様とは無関係には存在せず、かつ生きることができないからです。「神は愛です」(第一ヨハネの手紙4章8節)とありますが、私たちは、この神は愛である、という言葉、つまり、事実に目を留め、心を馳せ、そして、私たちは、この方の思いと、そして、その「声」にこそ、耳を傾け、生きるべきだ、という結論に至るのです。一人ひとりがぜひ確かめていただきたい、それは、この世界に神!がおられるのか、否か、そして、おられると確信したのなら、その方の思いと、またその御声に耳を傾け、生きて欲しい、自分を信じろではなく、私たちを造られた、創造主なる神様を信じて生きろ!と。
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もし、この世界に光がなかったら、、、

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もし、この世界に光がなかったら、と考えてみると、なんだか非常に怖くなる。それは勿論、物理的な光もですが、何より私たちの人生に、「光」を見出せなかったら、、、「光よ、あれ!」とは、聖書の最初の章、「創世記」の言葉ですが、神様が、天地万物を造られたとき、一番最初に何を造ったか?それは、「光」でした。”そのとき、神が「光よ、あれ」と仰せられた。すると光ができた。神はその光を良しと見られた。”(創世記1章3,4節)確かに、私たちは、「光」がある所が好き、暗いよりは、明るいところが好き、しかし、人生の中で、必ずしも、明るく、輝くときばかりではない、暗い谷間を歩くときもあるでしょう。でも、この世界に、”消えない光”があるとすれば、私たちは、その光りを求めて、また信頼して生きることができる。その光りこそ、私たちが信じている、神様であり、神様は、この世界を造られたとき、まず、ご自身が「光」であることを示して、その最初に「光よ、あれ!」と言われ、この世界に「光」を造られた。だから、今でも、例え、暗い夜の中でも、もう少し時間が経てば、明るくなる、日が上る、と期待している。毎日、毎日の時間の経過がそのことを教えているようです。もうじき、クリスマスを迎えますが、クリスマスは、まさに「光」がテーマとなるときです。イエス・キリストの誕生、それは、この世界に”本当の”また”消えない光”が来た!ということを覚えるときだからです。”すべての人を照らすそのまことの光が世界に来ようとしていた。”(ヨハネの福音書1章9節)この世界に、決して消えない、また私たちを、二度と、間違った方向に導くことのない「光」がある、ということだけで、私たちの人生において、これ以上のものはなく、またすべての苦しみ、悲しみを吹き消してしまう力がある、と言えるのではないでしょうか?
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いつくしみ深き友なるイエスは(ドラマ:イノセント・ラブについて) [映画・ドラマ]

イノセント・ラブというドラマの第一話を録画で見ました。イノセント(無垢)・ラブ(愛)という意味でしょうか。何故録画したかというと、ワイドショーか何かで、番組の紹介として、「いつくしみ深き、友なるイエス」という賛美歌を役者さんが特訓で弾けるようになった、との話で、どんなドラマかと思って録画したのですが、見る暇が無く、今回初めて見た次第です。感想はまだ良く分からないのですが(それが、ドラマの良さでしょう)、一人一人の人生の背景が非常に重いドラマのようですね。しかしドラマ全体のテーマが賛美歌というのは史上初めてではと思いのですが、その点でも、視聴者の方々がどのように感じるのか楽しみでもあります。また、なんとなく三浦綾子さんの「氷点」とも雰囲気が似ているようにも感じました。ところで三浦綾子さんと言えば、「氷点」も有名ですが、なんと言っても「塩狩峠」(著書も、映画も)捨てがたい。最近、色々な方が、この本を読んで感動した、感銘を受けた、と述べています。例えば、ある有名な女優さんがある雑誌に記していましたし、あるニュースキャスターも読んでいるとか、ある建築科の大学では、塩狩峠の映画を見ることが伝統であり、授業の一環なのだそうです。どうして建築科?と思いますが、何か多くの人がこの作品に感動を覚えることは事実のようです。このことは、また別の機会に詳しく記したいと思います。では、イノセント・ラブのBGM である、「いつくしみ深き」の歌詞を載せたいと思います。
 1)いつくしみ深き、友なるイエスは、罪咎憂いを 取り去りたもう。心の嘆きを 包まず述べて、などかは下ろさぬ 負える重荷を。2)いつくしみ深き、友なるイエスは、我らの弱気を 知りて憐れむ。悩み悲しみに 沈める時も 祈りに答えて 慰めたまわん。3)いつくしみ深き、友なるイエスは、変わらぬ愛もて、導きたもう。世の友われらを 捨て去るときも、祈りに答えて いたわりたまわん。 

”人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。”                 ヨハネの福音書(新約聖書)15章13節  この歌の背後にある聖書の箇所であり、「塩狩峠」のテーマとなっている箇所です。

ハロウィーンとは? [行事]

10月31日は、ハロウィーンの祭りとされ、日本でも最近、気味の悪い仮装や、店頭に、カボチャだの、魔女、こうもり等の黒衣装が売られているのを見ると、まるでオカルト映画の世界そのものに見えてきますが、このハロウィーンの起源を調べて見ると、以外なことが分かってきました。それは、キリスト教、特に、ローマカトリックの祭りと思われているのですが、それはとんでもないことで、この祭りの起源は、もっと古く、またその内容は、とても、キリスト教とは相容れないものです。ハロウィンの「ハロウ」とは、英語の「Hallows」で、「聖人」を意味します。そして、AD835年に、11月1日を「諸聖人の祝日」とし、また11月2日を後に、「万霊祭(すべての魂の日)」として定めたのですが、それ以前より、キリスト教に改宗していた、ケルト人(英国、フランス等)が、信仰していた、「ドルイド教」の祭り、「サムハイン」が後に、これらの諸聖日と混合し、そして、諸聖人の祝日の前夜祭として、この「ハロウィーン」が定着したというのです。つまり、ハロウィーンとは、名は、カトリックの祭りでありながら、前夜祭であるハロウィーンは、ケルト人の宗教ドルイドの祭りなのです。では、実際、このドルイドの祭りがどのようなものであったのかを、説明した文書があるので、以下に引用したいと思います。
 -すべての時代の暗黒の世界で、もっとも悪しき人々はドルイド僧である。これはまた『柏(かしわ)の人々』Men of oakとも呼ばれている。彼らは人間の生贄を要求する。男子の奴隷やローマ軍の兵士が堅い砂地の上に置かれたかごの中で生きながらに焼き殺された。ドルイド僧たちは火の神エルフィンが大地から出てきて犠牲を飲み尽くすように叫び求める。その間、ドルイド教のビートの音楽が聞こえる。(注*これがロックなどに取り入れられている)。このドルイド教の大きな祭りがハロウィーンである。~ハロウィーンの日に、ドルイド僧と信者たちは、城から城、農奴から農奴へ”トリックオアトリート”と言いながら渡り歩く。ドルイド僧たちが城で要求する「トリート」とは、その城主の王妃か他の女性の生贄である。「トリート」がドルイド僧に気に入ると、彼らは、人間の脂肪で作ったロウソクが灯されている「ジャックオランターン」を置いて行く。それは悪霊によってその城の内部の人間がその夜殺されるのを防ぐというものである。~すでに見たように、クリスマスも、ハロウィーンもサタン的な祭りであるが、欧米では子どものお遊びとして一般社会に普及している。ハロウィーンの実態がこのようなものであるとしたら、欧米のクリスチャンたちはそれでも自分の子どもを遊びに行かせるだろうか。最近、ハロウィーンの日に子どもが多数殺されるので、アメリカから帰ってきた人の話では、次第にやめられているという。-(小石泉著「悪魔の秘密組織」より」)
 このように引用するのも、忌まわしいほどの内容、それがハロウィーンの祭りです。また、これが日本に定着した理由の一つに、映画「E・T」の影響もあると言われていますが、私達が、遊び半分で関わることのできる祭りではないことは明らかであり、また、このような祭りが、習慣として、これ以上定着しないように、啓蒙し、また諭し、特に、クリスチャンたちは、神様に憐れみを求め祈らなければならない、と考えます。

ハレルヤ!、て日本語? [日本文化とキリスト教]

ハレルヤ!という言葉を良く聞きますね。ゴスペルの中でも、良く聞くフレーズです。そして、教会に行くと、特に、英語圏の教会に行くと、もうこればっかり、という感じです。その意味は、英語のPraise the Lord! 、「主(神様)を賛美せよ!」との意です。私も長らくそのように理解していました。しかし、「ハレルヤ」という言葉は元来、英語ではなく、イスラエルの言葉:ヘブル語であり、その本当の意味は、ハレル=光輝く、あるいは、栄光があるように、であり、最後の「ヤ」は神様を表す「ヤァヴェー」の短縮形、つまり”神様”を表す音(言葉)です。正確には、”神様に、栄光があるように”、です。ここで、日本人として、ん!と思うことがあります。それは、日本語でも「はれる(晴れる)」、と言えば”雲が晴れる”とか、また天気だけではなく、”明るくなる”という意味で使ったり、また昔から「ハレ(晴れ)の日」、また「ハレとケ」、と言い、「ハレ」は、華やかな喜ばしい日(事)、「ケ」はその反対、と用い、本来宗教的な意味を持つ言葉として用いてきました。そして、この「はれ」、が動詞活用されると、「はれる(晴れる)」となります。そして、最後に「ヤ」を加えるなら、実はヘブル語の「ハレルヤ」とほぼ同じ意味になります。これには正直驚きました!なぜなら、教会等で「ハレルヤ!」と歌い、叫んでいたのは、実は、日本語だったのか!?ということだからです。以前から、色々な人、またメディアが、日本とヘブルの類似性を指摘し、自分はまさか?と半信半疑でしたが、このことに気づいてからは、もしかすると、もしかするかも!、と思うきっかけとなりました。ネット等でも、色々と調べることができますので、興味のある方は観てみてください。これ以外にも日本とユダヤの関係については色々とありますが、とりあえず今回はここまでといたします。ではまた。

ウルトラマンのモデルは、イエス・キリスト? [日本文化とキリスト教]

KRT2DSCATA1OVDCA17TS65CA3W3ERECAEBFTJ2CAJL47HACAD7RJCRCAQD06TOCAR4K495CAEU0ASWCASETTMMCAMHGTTVCACYPS16CAZT16ZWCAF6GY5BCABWIHLGCA8OGQWMCAJ7ENQVCAEHKAH8CAAQL93R.jpg私は、クリスチャンであり、また日本人なので、いやが上でも、日本とキリスト教の関係、また、日本文化と、キリスト教の受容という関係に、興味を持たざるを得ません。しかし、以外に知られていないことなのですが、日本という国の奥底に、実は、「キリスト教」「キリスト教文化」というものがある、ということを、ますます、色々な方面から確信するこの頃です。このブログの中でも、少しづつ紹介できれば、と思います。今回は、「ウルトラマン」です。ヒーローものの代名詞である、ウルトラマンの生みの親、円谷プロの円谷社長は、実は、キリスト教徒です。そして、ウルトラマンの設定の中に、キリストをダブらせ、また、聖書的な要素を、含ませているように、私は感じております。勿論、円谷社長自身の発言の中に、そのようなものがあるかは定かではありません(ネット等で調べましたが)ので、以下は、私個人の勝手な解釈と思ってください。まず、ウルトラマンという名前そのもに、イエス・キリストを含ませているように思います。イエスは、神の御子、つまり、神ご自身でありながら、”人”であり、ご自身を”人の子”と名乗ってたので、その意味では、人でありながら人ではない、という意味では、”超人”つまり、「ウルトラマン」なのです。また、ウルトラマンは、M78星雲の「光の国」から来た、とありますが、これも、”わたし(イエス)は世の光です。”と言われたように、イエス様は、「光の国」の方なのです。また、ウルトラマンが、怪獣と戦うのですが、この戦いは、善悪の戦い、また、悪の根源である、悪魔(サタン)との戦いをダブらせているように思われます。また、ウルトラマンは、300万光年の彼方から来るのですが、これも、天(神の領域)から送られた、神の御子イエスを、そして、ウルトラマンが、地球を救うという設定も、「救世主」なるキリストが、世界を救うということを伝えたかったのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか?いずれにせよ、円谷さんが、信仰者であり、また、その方の信念が、あの作品に滲み出て、多くの子どもたちに影響を与え、そして、その子どもたちが成長し、今は現役世代として日本の社会を支えているのですから、ウルトラマンを通じての日本におけるキリスト教文化の影響は大きいものがあるのではないか、と思うのです。

崖の上のポニョ(2) 見てきました! [映画・ドラマ]

ポニョ.jpgようやく、「崖の上のポニョ」を観ることができました。実は、宮崎作品を、劇場で見るのは初めてです。独特の映像観は、相変わらずと思いました。さて、以前の触れたのですが、やはり、この作品の根底にあるものは、「進化論」でした。何度となく、ポニョのお父さんが、進化論的用語を口走っていました。恐らく、宮崎さんは、アンデルセンの人魚姫を参考にしながらも、彼の世界観、つまり、すべての生物は、”母なる海”より生まれ、派生し、そして、今の近代社会がある、ということを表現したかったのでしょう。そして、海の中には、未だ”進化”する以前の生き物と世界が存在し、そして、その世界の住人は、丘の上の人々の現状を憂いている、と。確かに、ファンタジーとしては、面白いし、また、何とも言えない、童心に帰るような、ノスタルジーを覚えさせてくれるのですが、しかし、そのような童心に帰ることで、今私達が置かれている現状に対し、何らかの解決があるのか、と言えば、実は何もない、のです。その意味では、かえって虚しさを覚えました。人間が、母なる海、に帰るなら、そこに解決がある、というのは一種の海信仰なんでしょうね。しかし、人間のルーツが海にある、というのも、一つの仮説に過ぎないし、また、海に何がある?と言いたい。でもこれを見て、多くの子どもは、人間は、昔、魚だった、と理解するようになるのかな、と思うと、悲しくなりました。人間は、尊い、また、それぞれユニークな神様の作品なのに!、と叫びたい衝動にかられました。それと、1907年という数字が何度も登場するのですが、これも「創造的進化論」という学説が発表された年を意識しているのでしょうか?この映画は、ただ子どもに見せるための寓話ではなく、明確な意図、つまり、彼の進化論的な世界観を伝えるために作られたもの、と理解しました。

種を蒔く人by ミレー [キリスト教文化]

種を蒔く人.jpg今でも時々ミレーの絵を見かけますね。「晩鐘」「落穂拾い」等が有名ですが、この「種を蒔く人」の絵も有名で、あのゴッホの、この絵を模写しました。二人とも聖書的な題材が多いなどの共通点があります。この絵は、現在山梨の美術館に所蔵されています。この「種を蒔く人」の絵は、実はただの牧歌的な絵ではないと言われています。この絵は、聖書の”種蒔きのたとえ”(マタイの福音書13章)と関係があることが指摘されています。聖書において、「種」とは何か?それは「神様の御言葉」です。では、その聖書の箇所から”「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道端に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると、焼けて、根がないために枯れた。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」”(マタイの福音書意13章3~9節)この後、この例の説明として、種は、神の御言葉であることが明かされます。私どもの教会の名を、「ニュー・ハーベスト(新しい収穫)」と付けた理由もここにあります。神の御言葉が、この地、つまり、人々の心の中に、蒔かれると、いずれ芽を出す、そして、永遠の命への実を実らせ、その実を神様が刈り取り、天の御国へと入れてくださるのです。キリスト教徒たちが、何故、聖書を大事にするか、それは神様の御言葉が記されており、かつ、その御言葉が永遠の命を与えてくれるもの、と知っているからなのです。ミレーの絵は、夕暮れのような暗い背景の中に描かれています。それは、夕闇のような暗い世相の中に、永遠の命へと至る実を実らせる種=”神の御言葉”を、信仰によって蒔いている、と表現したかったのではないか、と考えます。”御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くとも、しっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”(第二テモテ4:2 新約聖書)つまり、周りの状況如何に関わらず、神様の御言葉を伝えよ、との意です。そして、この農夫には、いかなる困難にも立ち向かう、不屈の精神、時が良くても、悪くても、その信仰によって、種を蒔き続ける、それは、ミレー自身の心情の表れなのかも知れませんが、そのような力強さと、逞しさとを感じます。このような視点で、改めて見るなら、あの絵があたかも立体映像のように見えて来ませんか?

地球温暖化説?

今年の夏は、本当に暑い、と言っても、日本はまだ良いほうで、世界には、平気で40度を超える地方があり、体温よりも暑い気温で、果たして、人はどのようにして生きて行けるのか?フランスでも、3~4年前に、熱波により、ひと夏で1万5千人以上の人が、熱中症で亡くなられたそうです。そして、このような異常な高温化は、一重に、温室効果ガス、つまりCo2にあるとされています。しかし、ネット等でも、地球規模の温暖化は、必ずしも、Co2の増加だけがその原因ではなく、実は、「太陽」に原因がある、との研究もあるというのです。それは、太陽にある、「黒点」の増加と、黒点運動の活発化にあると、見る学者もいます。これを聞いたとき、んッ!と息が詰まる思いがしました。それは、事は、人間の努力、云々ではどうにもならない事象が起きている可能性がある、ということだからです。勿論、これも一つの学説なので、確証はない、とも言われますが、いずれにせよ、地球規模で、今まで経験したことのない気候変動が起きていることだけは事実のようです。地球温暖化に限らず、色々な、困難や、苦境に立たされるとき、人間は、どのような態度を示すか、ということを考えてみたいと思います。一つは、状況に、落胆、絶望する、あるいは、その原因を他者に求め、その人、組織等に憤慨し、その責任を追求する、あるいは敢えて何事もなかったかのように考え、また振舞おうとする。今、多くの人が取っている態度は、この一番最後の態度かな?とも思うのです。確かに、このままではいけない、近未来も予想できる、そして、今手を打たなければ手遅れになる、と分かっていても、中々行動に移れない、例え移っても果たして効果が望めるか?それで、敢えて考えない、知らない振りをするのかもしれません。では、クリスチャンたちは、このような状況に対し、どのような態度、また行動を取るべきか?勿論、クリスチャンにも色々な考えの持ち主がいますから、一概には言えませんが、私達は、まず、色々な状況の中に、”神様の御心”を見て取ろうとします。例えば、この温暖化は、人間に対する警告なのか?とか、あるいは人間の自然に対する態度を変えるべきだ、という神様のメッセージでは、と色々と思索します、つまり神様に質問するのです。また、聖書は、明らかに、今あるこの世界に終焉があることを教えています。それは、”最後の審判”としての世界の終りです。終末というと、何か、カルト、オカルトっぽく聞こえるかもしれませんが、しかし、生きとし生けるものすべてに”終り”があることは事実です。ですから、世界の終り、というとき、それを特別なことと考える必要はありません。物理の第二力学の法則(エントロピーの法則)が明らかにしているように、”物”は、放っておけば、次第に崩れ、また、熱を失う、つまり、死ぬ、のです。今地球がそのレベルにあるのか否かは、まさに神のみぞ知る、なのですが、今私達がなすべきことは、まずCo2を減らそう!そうすれば、この地球の環境は回復する、また人類はまだまだ生き延びることができると考えるべきか?あるいは、この状況に対し、世界の創造者なる神様に、今あなたは、何を考えておられるのですか?この地球温暖化の中に、あなたの思い、御心、計画があるのでしょうか?と聞くことが大切ではないか、と思っております。
”神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。”  伝道者の書7章13、14節

信仰って特別なこと?

”信仰がなくては、神に喜ばれません。” ヘブル人への手紙11章6節(新約聖書)

「信仰」というと、何か、宗教的、また、ある特殊な精神的な感情、いまどきの表現で言う、スピリチャルという領域のことと思われるかもしれませんが、しかし、実は、私達は、常日頃、この信仰と呼べる、心の動きをもって、生きている、ということを、私達は、良く自分の心理を観察分析してみると、解るのです。それは、私達の”選択”の問題です。何を食べるか?何を飲むか?また、何をするか?と言わば、基本的な日常の行為の中に、私達は、次の瞬間に”何をすべきか?”という問いに答えるために、次の行為へ移るとき、またその為に、未来という、不確定な事柄に対し、ある種の信念、信仰をもって自分の行為を、決定している、という意味では、すべての人が、”信じる”、そしてその信じる内容、基準、また対象が、崇敬の念を持つとき、それを、”信仰”と呼ぶことができると思います。つまり、未来に向かい、そして、自らの意志を働かせ、何かを選択しながら生きている、という意味では、みな”信仰者”なのです。そして、その信じる対象が、ある人は、神であり、またある人は、自分しか信じない、また自分の勘を信じると言い、ある人は占い、あるいはマニュアル、情報誌、etcなのです。そして、クリスチャンと呼ばれる人たちは、その判断基準に、何よりも、神様、そして、神様の言葉が記された、聖書、また、祈りの中で、神様から語られること、それらを、自分自身の”判断”よりも、神様の”判断”として尊重し、その判断に従う、ということに基本を置く者なのです。確かに、人生は選択、決断の連続です。あくまで、本当は未確定な次の瞬間に向って、進まなければならない人生において、できることなら、一度たりとも失敗せず、進んで行きたい、と思うのは、とても自然なことと考えます。要は、信じるか、信じないか、ではなく、すべての人は、何かを信じて生きている、しかし、その信じる対象によって、私達の人生の歩みは決まってしまう、ということです。皆さんは、”何”を信じておられますか?

進化論と創造論との狭間で

夏休みになると、NHK第一で、「夏休み子ども相談」という番組が放送されます。出勤途中に聞いていたのですが、多くの子どもたちは、虫、動物の生態や、地球、宇宙の仕組みにとても関心があるようでした。その中の一人の子が、”どうして、生き物には、たくさんの種類があるのですか?”という質問をしました。その回答に、女性のおそらく生物学者の方でしょうか、”実は、私も、そのことが理由で、研究者になりました。”との返答、そして、何故これほど多くの種類の生き物がいるか、実は、本当のところは解っていないのですが、と前置きしながらも、それは、”環境”のせいですよ!と答えました。世界には、色々な環境の差がある、それが、今の生き物の種類を作り出した、つまり、”適者適存”という考えです。様々の環境に適応するために、それぞれの生き物の形態が変化した、ということです。しかし、果たしてそうなのでしょうか?何気なく聞いていれば聞き流すこともできます。なぜなら、この理論、つまり、”進化論”は、私達が小さい時から、繰り返し、繰り返し聞かされてきたことだからです。学校、テレビ、ラジオ、子どもの読み物、と。何年か前に、スマップが、「世界でたった一つの花」という歌を歌い、多くの人が、その歌詞に励まされたのです。”世界に一つだけの花、一人一人違う種を持つ”、という歌詞は、この進化論とは、全く正反対の内容です。もし、今の人間の姿が”環境”のせいならば、つまり、たまたま、このような環境にいるので、こんな姿になった、ということと、”一人一人違う種を持つ”からこそ、このような姿になった、とは大きな差があるからです。世界でたった一つの花、それは、本当にユニークで、かつ貴重な花々は、環境等に影響された、言わば”偶然の産物”ではないのです。それは、この歌詞の言外に感じるもの、それは、これらの一つ一つの花、すなわち、私達一人一人は、この世界の創造者なる、神様によって、私達を、この世界でたったひとつの尊い存在として造られた、というメッセージです。どうしてこの世界には、これほど多くの種類の生物がいるのか?それは、一重に神様のデザインの”多様性”によっている、と考えます。神様は、お一人お一人を、丹精込めて造られた。だからこそ、私達は世界でたった”ひとつ”、の存在なのです。ただこの世界で生き延びる、処世術として、このような姿に変化したものではなく、すべての生き物は、神様のハンドメイド、それも意匠のこもった素晴らしい”作品”です。神様が持つ多様性、それがこの世界の生き物の多様性として表れている、と考える方がより合点が行くような気がしますが。

崖の上のポニョについて [映画・ドラマ]

ポニョ.jpgポニョ、ポニョ、ポニョ 魚の子~
皆さん、「崖の上のポニョ」を観られましたか?と言う自分は、まだ見ておりませんが、近いうちに見たいと思っております。どんな映画かと思って、公式HPを見ると、監督である宮崎駿さんのコメントが載っていました。そして、気になる文が、、、それは、”キリスト教色を払拭して~”です。あー、やっぱりと思いました。それは、宮崎さんの、精神的な背景、哲学を知ってはいましたが、このようなコメントの仕方には、正直がっかりしました。この映画が、アンデルセンの「人魚姫」をモチーフにしていることは解っていましたが、もしそうならば、元の作者である、アンデルセンに対し、最低限の敬意を示すべきで、アンデルセンが、最も大切にしてたであろう、彼の信仰を、このような形で、否定しながらも、自分の世界観を、その中に、入れ込むというのは、何とも、失礼なのではないでしょうか?また、宮崎さんの根底にある世界観は、実は、すべての生き物は、みな「母なる海」から来た、というものであり、これは、実は、あの進化論者である、ダーゥインによるものですから、彼は、西洋の近代的な思想にどっぷり漬かっていると感じました。しかし、ダーゥイン自身は、晩年、自分の提唱した、進化論は、間違っている、と否定したとも言われており、何よりも、彼は、必ずしも、聖書を否定する形での進化論を提唱したのではなく、つまり、神の存在を否定するために提唱したものではなく、神様の存在を認めつつ、しかし世界の創造の課程は、進化論的なものだったのではないかと考え、その研究を発表した,とも言われています。恐らく、宮崎さんは、西洋文化=キリスト教文化=反自然的(自然を破壊する、大切にしない)、逆に日本を含め、東洋文化=非キリスト教的=親自然的=理想的な文明、との図式を持っているように感じます。しかし、このような思想、発想は、短絡的で、キリスト教文化の本質を見てはいません。聖書は決して自然を破壊しろ、とは教えていません。それよりも、自然を、神様の被造物として、また、その管理を委ねられた者として、誠意をもって治め(管理、監督)なさい、と命じています。まだまだ日本における、キリスト教、また、聖書的な世界観に対する誤解が少なからずあるこのを見、少々残念ですが、火のないところに煙は立たず、とも言いいますので、過去のキリスト教に対する反省が必要かと考えます。まだ、実際に映画を観ていないので、これ以上のコメントは控えたいと思いますが、同時に、そのような視点をもって、見に行こうかなとも思っております。映画を観ましたら、感想等記したいと思いますが、すでに映画を観られた方の感想などもお聞かせください!

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