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キリスト教らしさ [日本文化とキリスト教]

最近ふと考えたこと、それは「キリスト教らしさ」って何だろう、です。多くの人は、イエス・キリスト、またキリスト教について聞いてきる、知っているでしょう。しかし、キリスト教とは何か?と問われたら、その中身を、正確に答えられる人は、どれほどいるのだろうか、と思いました。そういう自分も、キリスト教徒でありながら、また長年キリスト教について知っていながらも、それを、確かなものとしていただろうか、と考えたのです。というのは、キリスト教の特徴というか、その使命において”伝道”、すなわちキリスト教の教えを、広く宣べ伝えるということがります。となると、ただ空でっぽうを撃つように、伝道することはできません。その聞き手の関心を引かない限り、意味がなくなるからです。しかし、その聞き手の関心を引こうとするあまり、語るべき内容が、相手本位のものとなり、本来自分が語ろうとしていることを見失ってしまうのです。そして、更には、いつの間にか、キリスト教の本質が失われてしまう、ということが起きることもあるということです。そこで問題となるのは、キリスト教”らしさ”を見失ってまで、相手に迎合する必要はない、ということです。キリスト教は、キリストの教えの、また、その存在の”唯一”性にすべてがあると思います。多々あるうちの一つの教え、また多々いる偉人の中の一人でなく、唯一無二の存在、それが、神の御子イエス・キリストであり、またこの世界広しと言えど、イエス・キリストの名以外に、「救い」の対象となる、すなわち、絶対の信頼を置ける存在は、ほかには存在しない、ということです。それがすべてであり、それ以上でも、それ以下でもない、それでイイノダ!ということです。”この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。”(使徒の働き4章12節)

自分を信じろって言われても、、、 [日本文化とキリスト教]

自分を信じろ、信じられるのは、自分だけだ、最後は、自分だけが頼りだ!という言葉を、あたかも、その人を勇気付けるために用いられることがある。しかし、この言葉以上に、自分自身を不安定にさせる言葉はない、と思うのです。それは、人間は、人生の経過を経れば経るほど、自分ほど当てにならない存在はない、ということに気づくからです。若い時は、まだ経験が足りない、だから、これから充分訓練し、また修練をつめば、必ず、完成する、また完全に近づくことができる、と考えることもある。しかし、人生において、必ずしも、良い、また、納得行く経験ばかりではなく、実は、日々、失敗との格闘でもあり、その格闘に、なんとか、勝利しても、また次の難題が生まれて来る、それは、ほんとに冒険のようです。勝ち組、負け組みという言葉が流行しましたが、その言葉に象徴されるように、人生の成功者と、また失敗者、あるいは、失格者との線引き、それは、実は絶対的なものではなく、非常にあいまい、ある人には、その人が成功者に見える、しかし、本人は、内心不安で不安でしょうがないということもあるのです。それは何故でしょう?それは、人間の成功あるいは、達成感というものは、ある人にとっての主観的なものであり、かつ、その時、その時の状況に応じて絶えず変化し、それは、株の値段と同じように、絶えず競争の中に置かれ、そして、いつも、他者に出し抜かれないように、警戒をしていなければならず、かえって、自分の成功が、自分自身の首を絞めてしまうことがあるからです。ここで、問いたいのは、本当に、”自分”を信じる者が、成功し、自分を信じない者は、成功しない、と言えるのか?ということです。自分を信じるとは何か?それは、自分の能力、つまり、経験と、修練の賜物、また自分の潜在能力とでも言えるものでしょうか?しかし、このような試みは、実は、ことごとく失敗してきたことを、私たちは、歴史から学ぶことができます。それは、自分を信じるということは、それは、自分自身が、自分の人生の”主”となることであり、つまり、自分の心の王座に、自分自身が座り、命令し、決定をくだす、つまり、完全な自己責任という立場に、自分自身を置くことです。しかし、私たちは、人生の経験と共に、自分自身ほど当てにならないものであることを、次第に理解するようになります。人間は、弱く、そして愚かで、かつ多くの助けを必要としている、ということを。人間は、万能でも、全能でもないのです。だからこそ、”何”を信じるかが、私たちの人生の歩みを決定付けます。ある人は、自分の思いで、ある人は、他者の声に従い、ある人は、神と呼ばれる存在に、と人は、何かを信じて生きている者です。もし、この世界に「神」と呼ばれる存在が存在しないのならば、私たちは、最終的には、”自分”を信じろ!という結論に至るでしょう。なぜなら、自分のことを一番理解しているのは、神様を除いては、自分以外には無いのですから。しかし、もし、この世界に「神」と呼ばれる方、それも、すべてをご存知で、かつ、すべての被造物(神様が造られたものという意味)に対して深い関心を持っておられるのなら、私たちは、この神様というお方の思いや、また意志に対して、関心を払わざるを得ないのです。なぜなら、神様がこの世界を創造し、かつ私たちをも造られたのなら、私たちは、神様とは無関係には存在せず、かつ生きることができないからです。「神は愛です」(第一ヨハネの手紙4章8節)とありますが、私たちは、この神は愛である、という言葉、つまり、事実に目を留め、心を馳せ、そして、私たちは、この方の思いと、そして、その「声」にこそ、耳を傾け、生きるべきだ、という結論に至るのです。一人ひとりがぜひ確かめていただきたい、それは、この世界に神!がおられるのか、否か、そして、おられると確信したのなら、その方の思いと、またその御声に耳を傾け、生きて欲しい、自分を信じろではなく、私たちを造られた、創造主なる神様を信じて生きろ!と。

ハレルヤ!、て日本語? [日本文化とキリスト教]

ハレルヤ!という言葉を良く聞きますね。ゴスペルの中でも、良く聞くフレーズです。そして、教会に行くと、特に、英語圏の教会に行くと、もうこればっかり、という感じです。その意味は、英語のPraise the Lord! 、「主(神様)を賛美せよ!」との意です。私も長らくそのように理解していました。しかし、「ハレルヤ」という言葉は元来、英語ではなく、イスラエルの言葉:ヘブル語であり、その本当の意味は、ハレル=光輝く、あるいは、栄光があるように、であり、最後の「ヤ」は神様を表す「ヤァヴェー」の短縮形、つまり”神様”を表す音(言葉)です。正確には、”神様に、栄光があるように”、です。ここで、日本人として、ん!と思うことがあります。それは、日本語でも「はれる(晴れる)」、と言えば”雲が晴れる”とか、また天気だけではなく、”明るくなる”という意味で使ったり、また昔から「ハレ(晴れ)の日」、また「ハレとケ」、と言い、「ハレ」は、華やかな喜ばしい日(事)、「ケ」はその反対、と用い、本来宗教的な意味を持つ言葉として用いてきました。そして、この「はれ」、が動詞活用されると、「はれる(晴れる)」となります。そして、最後に「ヤ」を加えるなら、実はヘブル語の「ハレルヤ」とほぼ同じ意味になります。これには正直驚きました!なぜなら、教会等で「ハレルヤ!」と歌い、叫んでいたのは、実は、日本語だったのか!?ということだからです。以前から、色々な人、またメディアが、日本とヘブルの類似性を指摘し、自分はまさか?と半信半疑でしたが、このことに気づいてからは、もしかすると、もしかするかも!、と思うきっかけとなりました。ネット等でも、色々と調べることができますので、興味のある方は観てみてください。これ以外にも日本とユダヤの関係については色々とありますが、とりあえず今回はここまでといたします。ではまた。

ウルトラマンのモデルは、イエス・キリスト? [日本文化とキリスト教]

KRT2DSCATA1OVDCA17TS65CA3W3ERECAEBFTJ2CAJL47HACAD7RJCRCAQD06TOCAR4K495CAEU0ASWCASETTMMCAMHGTTVCACYPS16CAZT16ZWCAF6GY5BCABWIHLGCA8OGQWMCAJ7ENQVCAEHKAH8CAAQL93R.jpg私は、クリスチャンであり、また日本人なので、いやが上でも、日本とキリスト教の関係、また、日本文化と、キリスト教の受容という関係に、興味を持たざるを得ません。しかし、以外に知られていないことなのですが、日本という国の奥底に、実は、「キリスト教」「キリスト教文化」というものがある、ということを、ますます、色々な方面から確信するこの頃です。このブログの中でも、少しづつ紹介できれば、と思います。今回は、「ウルトラマン」です。ヒーローものの代名詞である、ウルトラマンの生みの親、円谷プロの円谷社長は、実は、キリスト教徒です。そして、ウルトラマンの設定の中に、キリストをダブらせ、また、聖書的な要素を、含ませているように、私は感じております。勿論、円谷社長自身の発言の中に、そのようなものがあるかは定かではありません(ネット等で調べましたが)ので、以下は、私個人の勝手な解釈と思ってください。まず、ウルトラマンという名前そのもに、イエス・キリストを含ませているように思います。イエスは、神の御子、つまり、神ご自身でありながら、”人”であり、ご自身を”人の子”と名乗ってたので、その意味では、人でありながら人ではない、という意味では、”超人”つまり、「ウルトラマン」なのです。また、ウルトラマンは、M78星雲の「光の国」から来た、とありますが、これも、”わたし(イエス)は世の光です。”と言われたように、イエス様は、「光の国」の方なのです。また、ウルトラマンが、怪獣と戦うのですが、この戦いは、善悪の戦い、また、悪の根源である、悪魔(サタン)との戦いをダブらせているように思われます。また、ウルトラマンは、300万光年の彼方から来るのですが、これも、天(神の領域)から送られた、神の御子イエスを、そして、ウルトラマンが、地球を救うという設定も、「救世主」なるキリストが、世界を救うということを伝えたかったのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか?いずれにせよ、円谷さんが、信仰者であり、また、その方の信念が、あの作品に滲み出て、多くの子どもたちに影響を与え、そして、その子どもたちが成長し、今は現役世代として日本の社会を支えているのですから、ウルトラマンを通じての日本におけるキリスト教文化の影響は大きいものがあるのではないか、と思うのです。
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