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映画「塩狩峠」を見て [映画・ドラマ]

塩狩峠.jpg昨日、皆さんで、映画「塩狩峠」を鑑賞しました。改めて、感動しましたし、また約26年前の映画なのですが、非常に新鮮に感じました。また、かつての青春ものと呼ばれた青春ドラマのように、あるいは、最近の韓流ブームで見られるような、純愛、あるいは、自己犠牲の精神を、この映画の中でも見ました。この映画の原作:小説「塩狩峠」(三浦綾子氏著)は、1968年作ですが、今もってなお、多くの人が、この小説を、最も好きな、あるいは、感動、影響を受けた小説として推薦しています。また、ある女性ミュージシャンが、この小説を、インターネットで推薦し、あの彼女が読むなら、私も、という多くの人、特に若い世代が、この本を読み、大きな感動を受けたと述べています。インターネットで「塩狩峠」で検索すると、あまりに多くの人が、この本を推薦しているので、驚きます。今年は、小説の主人公のモデルとなった長野雅夫さんが亡くなってから丁度100年目で、事故が起きた2月28日には、記念の式典が、塩狩峠持たれます。零下20℃にもなる塩狩峠に、今なお多くの人が集まるのを見て、あの事故そのものよりも、長野雅夫さんという方の生き様そのものが、あの事故を通して、私たちに、多くのことを、語り、また教えるからなのでしょう。彼は、いつも遺言書を身につけ、いつ何があっても、恐らく、当時の鉄道職は、非常に危険なものだったことを思わせますが、恥じることのないように、また、いつも死、それも、神に、また人に”仕える”という生き方の証しとして、それを携帯していたようです。その遺言書とは、次のようなものです。(以下、小説「塩狩峠」より)
 遺言  一、余は感謝してすべてを神に捧ぐ。  一、余が大罪は、イエス君に購われたり。諸兄妹よ、余の罪の大小となくすべてを赦されんことを。余は、諸兄妹が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味ははれんことを祈る。一、母や親族を待たずして、24時間を経ば葬られたし。一、火葬となし可及的虚礼の儀を廃し、之に対する時間と費用とは最も経済的たるを要す。湯灌のごときは無益なり、廃すべし。履歴の朗読、儀式的所感のごとき之を廃すること。  一、苦楽生死、均しく感謝。余が永眠せし時は、恐縮ながらここに認めある通りに宜しく願い上げそうろう、頓首 長野政雄 この遺言書の故に、一時は自殺であった、との噂もされたようですが、わざわざ、事故が起きた列車において、自殺をする人がいるでしょうか?また、この事故に居合わせた乗客の中に、長野さんが最後のお別れの合図をした、との証言もあるとのことで、自殺、あるいは、長野さんの業務上の過失ではなく、犠牲の死、つまり殉職だったのでしょう。この事故が、今もってなお私たちに語りかけるもの、それは、犠牲的な死、という自己犠牲の精神と生き方も勿論ですが、それだけでなく、果たして私たちは、長野さんのように生き、それも日々、「遺言書」を持参して生きる、という人生そのものに対する姿勢が問われているのではないでしょうか?いつ、何時、自らのいのちを失っても、その覚悟と、また、その人生に恥じない生き方、また死に方というものを、考え、意識して生きる、というその生き様に、改めて「人生の意味」とは何か、ということを考えさせる、良い機会となり。またこれからもなるるようにと映画「塩狩峠」を見ながら思った次第です。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(新約聖書 ピリピ人への手紙1章21節)
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2月11日(水)午後4:30~より、映画「塩狩峠」上映会のお知らせ。 [映画・ドラマ]

塩狩峠.jpg2月11日(水)午後4時30分~より、三浦綾子原作・小説「塩狩峠」の映画上映会を開催いたします。今年は、塩狩峠での事故、故長野政雄さんが、その身をもって暴走した客車を止めた事故から100周年目にあたり、来る2月28日に、長野さんを偲ぶ式典が、塩狩峠にて行われるそうです。ニュー・ハーベスト・チャーチでも、同じ思いで映画の上映会を企画いたしました。入場無料ですので、ご都合のつく方は、どなたでもいらしてください。お待ちしております。
 問い合わせ等: 電話 046-255-2870(終日連絡可)
            メール hiroaki@gc4.so-net.ne.jp   
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いつくしみ深き友なるイエスは(ドラマ:イノセント・ラブについて) [映画・ドラマ]

イノセント・ラブというドラマの第一話を録画で見ました。イノセント(無垢)・ラブ(愛)という意味でしょうか。何故録画したかというと、ワイドショーか何かで、番組の紹介として、「いつくしみ深き、友なるイエス」という賛美歌を役者さんが特訓で弾けるようになった、との話で、どんなドラマかと思って録画したのですが、見る暇が無く、今回初めて見た次第です。感想はまだ良く分からないのですが(それが、ドラマの良さでしょう)、一人一人の人生の背景が非常に重いドラマのようですね。しかしドラマ全体のテーマが賛美歌というのは史上初めてではと思いのですが、その点でも、視聴者の方々がどのように感じるのか楽しみでもあります。また、なんとなく三浦綾子さんの「氷点」とも雰囲気が似ているようにも感じました。ところで三浦綾子さんと言えば、「氷点」も有名ですが、なんと言っても「塩狩峠」(著書も、映画も)捨てがたい。最近、色々な方が、この本を読んで感動した、感銘を受けた、と述べています。例えば、ある有名な女優さんがある雑誌に記していましたし、あるニュースキャスターも読んでいるとか、ある建築科の大学では、塩狩峠の映画を見ることが伝統であり、授業の一環なのだそうです。どうして建築科?と思いますが、何か多くの人がこの作品に感動を覚えることは事実のようです。このことは、また別の機会に詳しく記したいと思います。では、イノセント・ラブのBGM である、「いつくしみ深き」の歌詞を載せたいと思います。
 1)いつくしみ深き、友なるイエスは、罪咎憂いを 取り去りたもう。心の嘆きを 包まず述べて、などかは下ろさぬ 負える重荷を。2)いつくしみ深き、友なるイエスは、我らの弱気を 知りて憐れむ。悩み悲しみに 沈める時も 祈りに答えて 慰めたまわん。3)いつくしみ深き、友なるイエスは、変わらぬ愛もて、導きたもう。世の友われらを 捨て去るときも、祈りに答えて いたわりたまわん。 

”人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。”                 ヨハネの福音書(新約聖書)15章13節  この歌の背後にある聖書の箇所であり、「塩狩峠」のテーマとなっている箇所です。

崖の上のポニョ(2) 見てきました! [映画・ドラマ]

ポニョ.jpgようやく、「崖の上のポニョ」を観ることができました。実は、宮崎作品を、劇場で見るのは初めてです。独特の映像観は、相変わらずと思いました。さて、以前の触れたのですが、やはり、この作品の根底にあるものは、「進化論」でした。何度となく、ポニョのお父さんが、進化論的用語を口走っていました。恐らく、宮崎さんは、アンデルセンの人魚姫を参考にしながらも、彼の世界観、つまり、すべての生物は、”母なる海”より生まれ、派生し、そして、今の近代社会がある、ということを表現したかったのでしょう。そして、海の中には、未だ”進化”する以前の生き物と世界が存在し、そして、その世界の住人は、丘の上の人々の現状を憂いている、と。確かに、ファンタジーとしては、面白いし、また、何とも言えない、童心に帰るような、ノスタルジーを覚えさせてくれるのですが、しかし、そのような童心に帰ることで、今私達が置かれている現状に対し、何らかの解決があるのか、と言えば、実は何もない、のです。その意味では、かえって虚しさを覚えました。人間が、母なる海、に帰るなら、そこに解決がある、というのは一種の海信仰なんでしょうね。しかし、人間のルーツが海にある、というのも、一つの仮説に過ぎないし、また、海に何がある?と言いたい。でもこれを見て、多くの子どもは、人間は、昔、魚だった、と理解するようになるのかな、と思うと、悲しくなりました。人間は、尊い、また、それぞれユニークな神様の作品なのに!、と叫びたい衝動にかられました。それと、1907年という数字が何度も登場するのですが、これも「創造的進化論」という学説が発表された年を意識しているのでしょうか?この映画は、ただ子どもに見せるための寓話ではなく、明確な意図、つまり、彼の進化論的な世界観を伝えるために作られたもの、と理解しました。

崖の上のポニョについて [映画・ドラマ]

ポニョ.jpgポニョ、ポニョ、ポニョ 魚の子~
皆さん、「崖の上のポニョ」を観られましたか?と言う自分は、まだ見ておりませんが、近いうちに見たいと思っております。どんな映画かと思って、公式HPを見ると、監督である宮崎駿さんのコメントが載っていました。そして、気になる文が、、、それは、”キリスト教色を払拭して~”です。あー、やっぱりと思いました。それは、宮崎さんの、精神的な背景、哲学を知ってはいましたが、このようなコメントの仕方には、正直がっかりしました。この映画が、アンデルセンの「人魚姫」をモチーフにしていることは解っていましたが、もしそうならば、元の作者である、アンデルセンに対し、最低限の敬意を示すべきで、アンデルセンが、最も大切にしてたであろう、彼の信仰を、このような形で、否定しながらも、自分の世界観を、その中に、入れ込むというのは、何とも、失礼なのではないでしょうか?また、宮崎さんの根底にある世界観は、実は、すべての生き物は、みな「母なる海」から来た、というものであり、これは、実は、あの進化論者である、ダーゥインによるものですから、彼は、西洋の近代的な思想にどっぷり漬かっていると感じました。しかし、ダーゥイン自身は、晩年、自分の提唱した、進化論は、間違っている、と否定したとも言われており、何よりも、彼は、必ずしも、聖書を否定する形での進化論を提唱したのではなく、つまり、神の存在を否定するために提唱したものではなく、神様の存在を認めつつ、しかし世界の創造の課程は、進化論的なものだったのではないかと考え、その研究を発表した,とも言われています。恐らく、宮崎さんは、西洋文化=キリスト教文化=反自然的(自然を破壊する、大切にしない)、逆に日本を含め、東洋文化=非キリスト教的=親自然的=理想的な文明、との図式を持っているように感じます。しかし、このような思想、発想は、短絡的で、キリスト教文化の本質を見てはいません。聖書は決して自然を破壊しろ、とは教えていません。それよりも、自然を、神様の被造物として、また、その管理を委ねられた者として、誠意をもって治め(管理、監督)なさい、と命じています。まだまだ日本における、キリスト教、また、聖書的な世界観に対する誤解が少なからずあるこのを見、少々残念ですが、火のないところに煙は立たず、とも言いいますので、過去のキリスト教に対する反省が必要かと考えます。まだ、実際に映画を観ていないので、これ以上のコメントは控えたいと思いますが、同時に、そのような視点をもって、見に行こうかなとも思っております。映画を観ましたら、感想等記したいと思いますが、すでに映画を観られた方の感想などもお聞かせください!

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