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十字架の恵み [ゴスペル]

十字架.jpg「困った時の神頼み」 多くの人が、宗教を信じなくとも、神の存在はなんとなく信じるとか、また、祈るのは本当に困った時だけということで、合格祈願、交通安全、お守り、厄除け、初詣、地鎮祭、と日本の伝統的な行事の中に、また年中行事の中に、多くの人間的な本能と、その自己防衛を目的とした色々な”神頼み”があることに気づかされます。しかし、これらの、宗教的な行いの中にあって、キリスト教独自のもの、は「十字架の恵み」です。「十字架」それは、かつては、「死の象徴」でした。日本においても、獄門磔(ごくもんはりつけ)と称する惨い極刑がありました。しかし、キリスト教における「十字架」は、もはや死の象徴ではなく、”いのち”のシンボルです。それは、イエス・キリストの十字架の死が、私たちのすべての「罪」を購(あがな)った、それは、本来なら、罪ある私たちが、その代価を払い、その刑罰を受けるところを、神の御子イエス・キリストが、私たちの”代わり”に、その刑罰を受けられた、という「十字架の恵み」の故です。神様は、ただ義務感からそれを行ったのではなく、私たちへの”愛”そのもの、その愛の大きさの故に、自らその代価(犠牲)を支払い、そして、私たちに罪の赦しの道を与えてくださいました。神様が、これほどまでに、すなわち、ご自身を犠牲にしてまで、私たちのために”与えたかった”もの、それが、「十字架の恵み」です。それは、私たちが生きて行く上で必要なもの、あるいは、欲する物々以上のもの、いえ比較すらできない最高のもの、それが「十字架の恵み」なのです。それを別の表現で言えば、「神様の愛」です。このような十字架の恵みを覚えると、不思議と、神様への信頼の欠如、不安が、いつの間にか消えてしまうことに気づきます。時には、欲しいもの、また困った時の神頼み的なことを考えることもあり、葛藤を覚えるのですが、しかし、「十字架の恵み」を覚えると、不思議に、それら不安、葛藤から解放され、そうか、十字架の恵みで充分!と思えるようになるのは不思議です。聖書は繰り返し、「十字架の恵み」を証しします。これこそ、「福音(良い知らせ):ゴスペル」ですね!「神は、その御子を賜るほどに、この世を愛された、それは、御子(キリスト)を信じる者は決して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)「私たちが、神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子(キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネの手紙4章10節)
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